2008年3月25日火曜日

アクマで脇役

相手にいい心持ちになってもらおうってんだから、第一に勝っちゃダメ。どんなことがあろうとも、勝ちをお客にゆずるのがヨイショゴルフの基本だ。「古今亭志ん駒『ヨイショ志ん駒一代』」

自分がいくら人前に出て陽気になっても、自分はお客さんを笑わせる道化であり、脇役でしかないことを自覚しておかなければならない。

パスだけでシュートしていない。

速水健朗『自分探しが止まらない』は、事例ばかり述べていているだけで「だから何?」の部分が書かれていない。ネタを提示するだけなら、後で賢い奴らに「ごっちゃんゴール」されるぞ。

2008年3月24日月曜日

新書は、その人の思想を表している。

 自分が選ぶ本は、恥ずかしながら偏っている。社会学のジェンダー論とかカルスタばかり読んでいる。(だからダメ人間。)

 それに対して、他人から薦められた本は新鮮だ。違う思考回路で論じているからだ。為になるかならないかは別にして、単純に楽しい。

 矢幡洋の『とにかく目立ちたがる人たち』は、私が関心を持っている「個性」を、心理学的な視点から書いている本だ。目立ちたがり屋を2種類の人間「ヒストリオニクス」と「ナルシスト」に分類し、どちらが需要があるのかを論じている本である。

 まず気になったのは、矢幡洋、通称「ヤハちゃん」は、セオドア・ミロン狂ということだ。はじめにの部分で、セミドア・ミロンを人格障害理論の国際的権威だと紹介している。

 次に「ヤハちゃん」は、演繹法的な思考回路をしている。まず先に理論があって、現実をそれに押しはめていく思考だ。

 「ヒストリオニクス」という理論をまず先に出す。そして「ヒストリオニクス」を外国人を使って説明する。杉村太蔵議員や田中康夫知事を例に出しているが、実際にインタビューしている気配はない。

おそらく「ヤハちゃん」は一歩も家の外には出ずに、この新書を作ったのではないか。学者肌の人は、現実とは違う世界に閉じこもっている引きこもりだ。 

 

私は、個性にこだわるイデオロギーのポジからもネガからも自由でいたい。

モノにこだわることは、必ずしもモノのコレクターであることだけを意味しない。気に入らないモノは、灰皿一つだって自分の部屋に置きたくない、という排除の美学だって、モノへのこだわりの裏返しのあらわれである。シンプルライフというのは、そういう排除のイデオロギーだろう。私は、モノにこだわるイデオロギーのポジからもネガからも自由でいたかった。(上野千鶴子,『増補<私>探しゲーム』ちくま学芸文庫)

私は、個性にこだわるイデオロギーのポジからもネガからも自由でいたい。



矢幡洋さんの『とにかく目立ちたがる人たち』の「はじめに」を読んだ。

 矢幡洋さんは、小学生の時「ひょうきんもののヤハちゃん」として個性的なキャラだった。しかしそういう自分が嫌いだったので、中学生になったら目立たないように努力していたらしい。没個性的になろうと努力していたのだ。

 しかし個性的になろうが没個性的になろうが、個性にこだわっている時点でイデオロギーに縛られている。イデオロギーの鎖を外すためには、その鎖がどういう形をしているのかを引きずり出して見なければならない。

 だから私は、個性的になる方法でも没個性的になる方法でもなく、脱個性的になる方法を模索する。