2008年8月28日木曜日

歴史

『橋爪大三郎の政治・経済学講義』の中で、「歴史を取り戻すこと。それは過去についての知識を増やすことではない。過去を、自分自身を形成した出来事として、最発見することだ。」

「自分が何が拘束しているかという、その無意識を調べていくためです。歴史上の大きな出来事は、同世代の人や後世の人に大きな無意識の束縛を及ぼします。ですから、自分も必ず過去のさまざまな出来事に縛られているわけです。それに気がつけば」

まとめ

家父長制が崩壊し、結婚も家同士の儀式ではなく、ただのイベントみたいになってきた。就職も昔は大学や教授のコネで入れたのが、今は誰でも自由に就職できるようになった。

制度やルールや伝統が崩壊し、自由になった。

自由、自由、自由。

しかし人は自由であればあるほど何も出来ない。

例えば大学生活がそうだ。高校とは違い、朝早く起きなくてもよい。授業にでなくてもいい。何をしてもいいのだ。
しかし気がつけば、無目的に四年間が過ぎてしまったのではないだろうか。図書館の前でじっと座ったまま、彼らは動けなくなったのだ。

次に私達がすべきことは、自分の中にルールを構築することだ。しかもそれはひとりよがりのルールではいけない。常に他者と向き合いながらルールを作る。

それを思想と呼ぶ。

2008年8月27日水曜日

ルール DNA

 AERA 2008年9月1日号の『AERA』の現代の肖像は、株式会社サムライ マネージャーの佐藤悦子さんだった。うるおぼえで申し訳ないが、記事にはこう書かれた。「私夫婦は自分の価値観に従って行動する。最近の若い人も自分の価値観を持っている。しかしそれが社会と結びついていない。」

 押井守さんは『凡人として生きるということ』の中で「美学というものは、自分で決める道であるとはいえ、自分勝手なものではいけないということだ。その美学が社会的に認知、公認されるかどうかは、とても重要な要素になる。」

 山田昌弘さんと白川桃子さんの『「婚活」時代』の中で「就職にしろ結婚にしろ、自由化が起これば思いどおりにならなくなる、というパラドクスです。」

 辻井喬さんと上野千鶴子さんの『ポスト消費社会のゆくえ』の中で「「私」より大切なものがある、という公共性の回復への志向ですね。なぜかというと、日本の戦後史といいうのは、見事に公共性を喪ってきた歴史でしたから。」

 『橋爪大三郎の政治・経済学講義』の中で、「知識を駆使して、制度に働きかけることを、思想と考えることができるのではないかと思います。制度、つまり人為的な社会のかたちのあるべき姿を考えるというのが、思想の目的ではないでしょうか。(中略)いったん採用された制度であっても、普段にそれを検討し、よりよいものはないかと考えていく。これが知識の役割ではないでしょうか。」

 押井守さんは『凡人として生きるということ』の中で、「個性を表現する手段として、多くの若者がファッションにお金をかける。自分の個性やセンスを証明する手段として、大量生産品の靴や服を得意げに身にまとっている。だが、本来それは、個性やセンスとはまったく次元の異なるものであり、若者は自分が単なる消費者として堕していることさえ気づいていない。」

 辻井喬さんと上野千鶴子さんの『ポスト消費社会のゆくえ』の中で「消費者は際限のない消費志向にまきこまれ、消費のための消費という嗜好や退廃が始まります。」

押井守さんは『凡人として生きるということ』の中で、「人からの押し付けやデマゴギーではあんく、ちゃんと自分の頭で考え抜いて、自分なりの価値を探すのだ。仕事でも、家族でも、世界平和でも、革命でも、何でもいいが、自分が準じる哲学を自分の手で勝ち取るのだ」