2008年12月2日火曜日

勇気100%

全社員の前でぶちかます!!久々にあんなに完璧に決まったぜ!!
最高!!完全に入った!!めちゃ気持ちいい!!

おはようございます。EMCMのHBCです。

本日はPCのために、応援歌を作ってきました。
聴いてください、EMCMで勇気100%…

(指を鳴らして小さめで)
がっかりして めそめそして どうしたんだい  
太陽みたいに笑う きみはどこだい  

Wow Wow(いきなり声量を上げて体は揺れる) 
やりたいこと やったもん勝ち 青春なら  
つらいときはいつだって そばにいるから
(ここらへんから社員の手拍子が入り勢いに乗る)

(体を揺らして静止してハモリ出す。)『うわ…本気や』
夢はでかくなけりゃ つまらないだろう  
胸をたたいて 冒険しよう  

そうさ100%勇気 もうがんばるしかないさ  
この世界中の元気 抱きしめながら  

そうさ 100%勇気 もうやりきるしかないさ  
ぼくたちが持てる輝き 永遠に忘れないでね

ぼくたちが持てる輝き 永遠に忘れないでね(2人でハモる)『うま!!』

…ご清聴ありがとうございました。

以上でEMCMの余興を終わりたいと思います。『余興やったんかい!!』

状況は厳しいですけど、勇気を出して頑張っていきましょう。

以上で発表を終わります。

ありがとうございました。

パクリですけど気持ちいい!!

2008年11月30日日曜日

漫才

人間臭さを表現したい。
人間の愚かさを笑って0にしたい。

笑いは諸刃の剣
人を嘲笑し、自尊心を破壊する武器にもなるし、
コンプレックスを0にできる可能性もある。

ふざけた笑いは嫌い。ちっとも面白くない。
その人の底から染み出た愚かさが好き。

アンタッチャブルの山崎の適当さ
ブラマヨの吉田のワガママと心配性
NONSTYLEの井上のナルシズム

友達になりたくないけど面白い。

2008年11月27日木曜日

政府の視点

「1円カンパニー」と「偽装請負」という一見別々の事象が、

政府の税金の取り立て政策という視点から見れば、

それらが関係性を帯びてくる。

2008年11月26日水曜日

礼儀正しい生意気さ

礼儀正しい生意気さを身につけたい。

礼儀正しさとは何か。

それは敬語とかお辞儀の仕方ではない。

礼儀正しさとは、相手が大事にしている考え方や物事を認めることである。

相手が大事にしている考え方や物事を否定すると本気で怒るだろう。
また自分よりも立場が上の者に言われれば、本気で凹むだろう。

まず一度認める。それが礼儀。

そのうえで、それでもやっぱりおかしいと感じたなら、
それは相手が傷つくことを恐れず、
相手が目上の人であろうが恐れず、
批判していく。

批判は、相手の穴を指摘し、
相手の意見をより面白い方向に導いていくために言うことである。
それは愛なのである。

それこそが礼儀正しい生意気さである。

2008年11月25日火曜日

基本的に人は無関心

基本的に人はお前には興味がない。

興味があるのは、悲しいほどに自分だけ。

人に興味があるとすれば、

ひとつは自分の自尊心を満たしてくれる人

もうひとつは、自分の自尊心を傷つける人

他の人には悲しいほど無関心。

2008年11月22日土曜日

メッキ加工

髪の毛どれだけワックスしても、寝癖だといわれる。
ジーパン履いたら中学生みたい。
サッカー部やったくせにリフティングできひん。
カラオケ言っても、ただ叫んでいるだけやし。

自分を保ちたい私は、なかなかそんな弱い自分を認められない。
認められない私は、強い私でそれをメッキする。

いい加減なことを言って人を笑わせる。
知識を使って、社会をきる。

メッキである程度モテる。
強い自分は、弱さを隠すためのメッキとして使うから、
一般受けするキャラで人様に接し、決して自分の話はしない。

逆にメッキが剥がれてきたら、
もう会いたくないので引きこもるし、一切連絡を取らず関係性を断ち切る。
彼女と別れたら、人様に打ち明けることはしない。
就職に納得がいかなかったから、アルゼンチンに逃亡しかけた。
結局は、ユニバースに逃亡したのだが。

逃亡先で出会ったのが彼女だった。
彼女はメッキの剥がれた弱い私のことを嘲笑った。
私の小さい部分やセコイ部分を嘲笑った。
またそういうクラスの中心になりたがる奴はしょうもない奴やと言った。
女の子と仲良い奴、きしょっかったと言った。

つまり彼女はメッキの部分で私の部分などは嫌いで、
そういうセコイ汚い弱さが面白かったのだ。

だからこそ私はクラムチャウダーを作って彼女を待っているのだろう。

1分間スピーチ「テレアポについて」 

いや~私なぞが、テレアポについてお話させていただくなど大変恐縮なのですが、

個人的にテレアポは8割「タイミング」ではないかなと思っています。

未だに敬語もおぼつかない私などがテレアポ取れるのだとすれば、

それはもう「タイミング」良く中途採用をしている企業に電話したからとしか言いようがありません。

では私がたまたまラッキーだったかというと、

そういうことを言っている訳ではなくて、

私はその中途採用をしている企業を見つけることに全力を費やしている訳です。

例えば私は毎日JACとキャプランとクイックとにらめっこして、

たとえ企業名を伏せいていても、

スイス本社…サノフィアベンティスー!!
複合糖質…生化学工業ー!!

みたいにキーワードで中途採用をしている企業を見つけ出します。

一番取れているYなんかもそうで、彼女は「新規開拓リスト」などを上手に使ってアポを取っています。

「タイミング」を意図的に作り出すことが重要になってくると思います。

で8割「タイミング」だとすると、あとの2割は何かといいますと、

それはYとこの前プライベートで初めて電話したんですけど、

彼女電話では「アニメ声」なんですね!

私が人事担当者だったら、会ってみたい!って思いますよ。

だからテレアポは8割タイミングで、2割アニメ声だと思います。

以上です。

2008年11月18日火曜日

ただできないだけ

できない人だって、自分を正当化したい気持ちがある。
いやできない人だからこそ、自分を保つのに必死なのだ。

でも容赦なく上司に指摘され、つめられる。

まだ元気があるときは、反論して自分を正当化しようとする。
「でもあれは自分が悪いんじゃないんです。」「でも」「でも」
でもそんな言い訳は上司に一蹴される。

その内元気が無くなってくると、逆に今度は無批判に受け入れる。
「はい!すみませんでした!おっしゃるとおりです。」
上司に言われたとおりにすることで(否定されないことで)自分を保とうとする。

しかし言っている意味がわからなくても、「はい!わかりました!」というもんだから、同じ失敗を繰り返す。「わかってないじゃないか!」とまた詰められる。

そのうち「不誠実」「適当」「言い訳がましい」というレッテルを貼られてどん底に落ちる。

できない人でもできなくても自分を保つ気持ちがある。それを否定したら、上記のような行為を繰り返し落ち込んでいくだけ。「できない人」という役割を作り出すのは、その本人ではなく周りの態度なのだ。

大事なことは「できない人」を認めること。できる人は言う。「なんでできないの?」それがわかっていたら初めからやってる。できない人はなんでできないのか自分でもわからないから悩んでいる。一種の病気なのかな、知恵遅れなのかな、本気で悩んでいる。

まずはできないことを理解して、できるようになるまで待つこと。詰めているだけでは自分を正当化することに必死になって、できるようになる努力まで手が回らない。できないことを認められて始めて自分の足で歩き出す。

できない奴は、不誠実でも、適当でも、嘘つきでも、何でもないのだ!

2008年11月17日月曜日

あのときの感情はどうすればいいのか

Yはできない人間である。



上司に怒られても、ごまかしたり、言い訳したり、適当な返事をしたりする。

同期には影で噂されて、あいつ終わってるって言われている。真剣に可哀想がられている。まだ一回も実績を上げていない。正真正銘のビリッケツだ。



でも私には彼の気持ちがとてもよくわかるのだ。

上司になんでできないの?なんでできないの?と問い詰められて、

黙って固まる気持ちがよくわかる。



できないのだ。決してやる気がないわけではない。

できないからできないのだ。

できない理由がわかっていたら、とっくに直している。



でもそんなことを上司に言えないから、わからないけどとりあえずわかったと返事をする。でまた同じ失敗をする。一回言われたことをなんでできないの?と非難される。人から呆れらた時の顔や見放されたときの辛さはますます自分を惨めにする。



何やっても駄目。

2008年11月16日日曜日

ドンキホーテ

友達とドンキホーテに行った。

友達は自分の部屋に合うトイレブラシを選んでいた。

すると友達は、いきなり箱から取り出して、トイレブラシを見だした。

私は『一回開けてもうたら、他のお客さんもう買わんわ…』と心の中で思っていた。

友達は大分悩んでいたが、「これにするわ!」と言いながら

箱が取り出したトイレブラシを置いて、

後ろにあったまだ箱に入っているトイレブラシを取った。

「せっこ~~~~!!!」

さすがに僕も、声が出てしまった。

友達は恥ずかしそうに箱から取り出した方をレジに運んだ。

無意識だったらしい。

なんかそういう人間のずるい部分というかセコイ部分が尊いわ。

ヨドバシカメラ

インターネットが接続できなくなったので、パソコンをヨドバシカメラに持ち込んだ。

店員が対応してくれたが、原因がわからない。

ひとつひとつ原因を確かめてくれた。20分間くらい。

やっと原因が見つかり、インターネットに接続することができた。

2100円かかるそうだが、サービスしてくれた。

店員さんの対応がすばらしかったので書いた。

2008年11月15日土曜日

「仲間探し」

おいらの仕事は、企業の「仲間探し」を手伝うことだ。

自分のことを支えてくれる「仲間」は、本当に大事。
A君、Dさん、Aちゃん、SEVEN、Y君、S君、Iさん、R&G…。

自尊心が崩壊しそうでどうしょうもないときも、
自分のことを理解してくれるもんだから踏ん張れる。

漫画ワンピースでも、仲間との出会いは感動的だ。
ワンピースのような小さな集団にとっては、
本当に一人の存在がものすごく重要になってくる。
その人がいないと集団が成り立たないくらいの勢いだ。

面接という名の「出会い」の機会を作る。
本当に短い時間で出会わなければならないから、
お互いの魅力をキチンと理解してもらえるように慎重にする。

おいらはそんな「仲間探し」を手伝っている。
血の通った熱い仕事をしている。

2008年11月9日日曜日

屁理屈

先方から理屈がましくいわれた。

こっちもこっちなりの理屈がある。

理屈って自分を肯定するだけの言い訳に過ぎないなと思った。

正しい理屈なんかなく、あるのは自分を納得できる理屈だけ。

人生こじつけなのか

正しさひかえめ

正しいことを言うときは少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは相手を傷つけやすいものだと気づいているほうがいい

吉野さんにこういう言葉がある。

最近、上司に指摘されることが多いが、圧倒的に正しいんです。

おっしゃる通りなんです。

でも自分は弱い人間だから、なんとか自分を正当化しようとする。

上司の言うことが正しくて、自分が間違っていることを自覚しているのに

ついつい言い訳がましくなってしまう。

だから正しいことを言うときは、相手に逃げ道を作ってあげる。

泥棒にも三分の理ありっていうじゃない?

そういうことなんす。

ブログをメタ的に

ブログで記憶の編集を行っている。

人は自分が正しいと思わないと生きていけないから、

こう言葉を綴ることで、自分自身を肯定している。

いやな思い出なんかは誰も見たくない。

誰が書くもんか。

ブログは嘘だらけ。

ブログは嘘だらけ。

でもその嘘の中に人の希望が映し出されている。

事実は書いていないが、

書いている人の理想や価値観が映し出されている。

2008年11月6日木曜日

吉野弘 祝婚歌

ふたりが睦まじくいるためには愚かでいるほうがいい
立派すぎないほうがいい
立派すぎることは長持ちしないことだと気づいてるほうがいい
完璧をめざさないほうがいい
完璧なんて不自然なことだとうそぶいているほうがいい
ふたりのうちどちらかがふざけているほうがいいずっこけているほうがいい
互いに非難することがあっても非難できる資格が自分にあったかどうかあとで疑わしくなるほうがいい
正しいことを言うときは少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは相手を傷つけやすいものだと気づいているほうがいい
立派でありたいとか正しくありたいとかいう無理な緊張には色目を使わず
ゆったりゆたかに光を浴びているほうがいい
健康で風に吹かれながら生きていることのなつかしさに
ふと胸が熱くなるそんな日があってもいい
そしてなぜ胸が熱くなるのか黙っていても
ふたりにはわかるものであってほしい

2008年11月3日月曜日

自分は間違っていました。

自分は、自尊心の奴隷だ。

確かに自尊心は大事だ。

おじいちゃんやおばあちゃが無償の愛をくれたり、
彼女が悩みを受け止めてくれたり、
友達が応援してくれるだけで、
水を得た魚のように自信満々に振舞うことができる。
どんな批判も跳ね返すことができる。

自尊心が満たされなければみじめで卑屈になる。

彼女があまり可愛くないから、人に見られるのは嫌だったりした。
就職活動うまく行かなかったから、アルゼンチンに逃亡しかけた。
私は姿をくらましたり、ごまかそうとする。

自尊心は大事だが、行き過ぎると自己欺瞞や他人の否定につながる。

例えば私は未だに高校の後夜祭で全校生徒の前で司会したことを誇りに思っている。
でも客観的にみれば、ただ場つなぎをしていただけで誰も覚えていないだろう。

自分の都合の良い記憶だけを集めてそれを反復して思い出すことで美化していく。
「記憶の修正」だ。

また友達から「お前は人をランク付けする」と言われたことがある。
たとえば私は以前に所属していたサークルにいた人間を差別していた。
逆にゼミの先生を崇拝し、推薦された本はその日に借りていた。

その自尊心という弱さや脆さや美しさは、みんな持っている。
しかし私は自分の自尊心を満たすために、視野狭窄に陥り、
自分とは違うものを排除し、人の自尊心を傷つけていた。

ゼミの先生がよく言ってた。
「自分が正しいと思っていることが痛い」
「個性という名のオリにとらえられている」

「知的であることの最低条件は、自己懐疑ができるかどうかということになる。」(『生物と無生物のあいだ』,福岡伸一,p.67)


自尊心を満たすために、私はずいぶん多くのものを失ったろう。

今私にすべきことは、人の自尊心を知って、それを尊重することだ。

友達が芸能人であるという栄光浴も、
ブランドを消費する人も、それを受け入れる。

それを馬鹿にしてはいけない。
笑うときは慎重にしなければならない。

人の自尊心を尊重することで、自分の自尊心がどういうものか骨格が見えてくる。
人の自尊心を尊重することで、自分の自尊心が破壊され、拡がっていく。

僕が尊敬する友達は、みんな柔軟性があった。
昔はなんて適当なやつだと思っていたが、
正直あこがれていた。

そういう奴は、他人の自尊心を尊重できる人間だった。

第二の人生のスタートが始まる。

彼女のプレゼント

彼女の誕生日プレゼントに、私はCOACHのバッグを買いました。

私にとってそれを贈るのは抵抗がありました。

なぜなら私は、「ブランド」を価値のないものをイメージで価値付けして消費する物質主義の最たるものと認識していたからです。

しかも彼女が欲しい理由が、「COACHが(ブランドとしての価値が)安いと知りながら、でもみんな持っているから欲しい」です。

抵抗感がさらに増しました。

でも私がそれを贈ったのは、「他人の自尊心を尊重する気持ち」が大事だと思ったからです。

ブランドは、気軽に自尊心を満たせる一種の道具です。ブランドものを持てば、自信満々に歩ける。ブランドものを自分の心の支えとして生きる人もいる。

それは決して否定してはいけないと思います。
人は自分を正当化しなければ生きてはいけないのだから。

こうして私が彼女のプレゼントについて書いていることも、
実は思想的には異なる行為に対して、
「他人の自尊心を尊重する気持ち」が大事という都合のいい解釈をして、
自分のした行為を正当化しているにちがいない。

そんな人間の弱さは大事にしたいんです。

2008年10月23日木曜日

マクラ「朝食」

「寝る前に明日の準備をする」ってぇのは、非常に大事なことであります。

特に月曜日の朝ってぇのは、9時出社ですから、

そりゃ~もぅ朝は慌しいもンでございます。

ですから朝に余裕を持つためにも、寝る前に明日の準備をする。

たとえば、寝る前に資料を準備しておくとか、

たとえば、寝る前にYシャツにアイロンをかけるとか、

まぁいろいろありますけれども、バカな奴になるってぇっと、

寝る前に明日の朝食を食べる奴がいる。

そりゃただの夜食じゃねぇかって。まぁバカな奴がいるもんで。

でもそいつに言わせると、「寝る前に食べる方が腹持ちがいいんだよ。」ってことを言うんです。

「そんなわけないでしょう」と思って、試しにこの前寝る前に朝食を食べてみたんですが、

そしたらなるほど、確かに腹持ちがいいんです。

というのは、ただ夜食の食べ過ぎで胃がもたれているだけなんですね。

ことにその~、寝る前に準備するというのァ、難しいようですな。

2008年10月18日土曜日

想像の共同体

自分の大学の理事長がご勇退されるということで、
お疲れ様パーティーに出席した。

外資系の高級ホテルで、卓を囲みながら、
学部や建物の話に花を咲かせていた。

そのうち昔の応援団だったおじいちゃんが仕切りだして、
全員起立して輪になり、逍遥歌を歌い始めた。

それはもう異様な風景。
歌っている人の真剣な顔たら見たことがない。
横にいる人もあんま知らないのに、
同じ共同体の仲間であることを感じている。

私も肩を組みながら、学閥ってあるんだなぁとしみじみ感じた。
そんなおじいちゃんが、私達の学費でいろんな施設を立てて、
自分の好きなように世界を作っている。

自由自在だ。

指で挟まれた。

朝の中央線で。

満員電車の中でぎゅうぎゅうになりながら揺られていたのだが、
どうも自分の股間の部分がおかしい。

誰かの手が当たっている。

誰かの手の甲に私の私が当たってしまっていると申し訳ないが、
どうやら手のひらを向けて私に当たっている。
そのうちその人は、人指し指と中指で挟み始めた。

朝の中央線で。
その人は金髪で短髪の派手な身なりをしたおじいちゃん。
R・E・A・L・G・E・Y

2008年10月8日水曜日

身体がボロボロになる。声が1週間出なくて、仕事にならない。身体中が筋肉中。腰は大きな赤黒いあざになっている。手はマメがつぶれ、しみる。急に気持ち悪くなった。綱を離し、フェンスに横たわる。立とうとすると、視界が真っ白になる。思い切り吐いた。その私に「気持ちが足りひん」と言った。

体力が底をつきて、疲弊感が漂っている。もう頭の中も考える力もない。「つらいつらいつらい」思考回路は停止する。もうどうにでもなれと線がプツンと切れる。一線切れる。身体を倒せ。前が見えない。ただ股の人間が足を掻けと煽る
団扇でたたく。

だんじりは、みんなの息を合わせないと動かない。その究極が「遣りまわし」だ。ひとつの笛がなり、綱元とどんずまりが一斉に足を掻き、だんじりを加速させる。後ろに

綱を

「だんじりは不思議なもんで、一人でも気が抜けている奴がいたら、おもんないからよ。」

「しんどそうに曳いていたらかっこ悪いって。笑って曳こうや。」

だんじりは、社会を可視化させる装置である。

2008年9月29日月曜日

撮ったり!!

グラビアアイドルが表紙を飾っている雑誌を見ても、何もエロスを感じない。

そう思っていた。

しかしこの前、遊びで友達の女の子の写真を撮っていたのだが、

これがすごく興奮することに気がついた。

どんどん妄想が浮かんで、ポーズを指定する。

2008年9月21日日曜日

学園モノのベタ

・主人公は、元気がだけが取り柄の三枚目キャラ。
・主人公のライバルは、かっこよくて頭もいいキャラ。
・女の子に人気だが、本人は関心がない。
・主人公は、いっつもライバルに嫉妬している。主人公は基本的に童貞。
・主人公は、同い年の純粋そうな女の子が好き。
・保健の先生は魅惑的。
・父親はいっつも否定するが、最後の最後は納得する。
・主人公にはものわかりのいい妹がいる。
・主人公の近くには、臆病者なパシリ役がいて、さりげなく主人公の解説をしてくれる。
・先生と生徒会長は、基本的に敵。
・体育の先生はラスボス。
・ラスボスに負けるとバケツを持って廊下に立たされる。
・舞台は夏。
・何もすることがなく、力を持て余している。
・屋上は基地で、何かを面白いことないか探す。
・会議でのパンとコーヒー牛乳はマスト。
・意味もなく走る。
・意味もなく叫ぶ。

ベタドラマをみて

ベタ。ありきたりでつまらないものだと思っていた。

しかしベタドラマを見て、皆が楽しめる共通のコードであることを学んだ。

心の中でベタな展開を望んでいる自分がいる。

ベタベタなのに感動する。

これはおもしろい

ダイナマイト関西2006

バッファロー五郎の木村がいちいちウザい。

浅越ゴエの司会は素晴らしい。出しゃばらず、一切自分を出さず司会業に徹する。素晴らしい。

デキレースのにおいがプンプン。

大喜利は、画になるかが大事。

何の脈略もないナンセンスネタや、知っている人しか分からない内輪ネタでは得点が入らない。

2008年9月17日水曜日

わからないという方法

はっきり言うが、私は見栄っ張りである。
特に「知性」と「笑い」に関しては見栄っ張りである。

この前、企業にお伺いした求人内容に食い違いがあった。

なぜそんな起こったのか考えてみた。

自分の理解力不足か。もっと本を読めば解決することなのか。
いや違う。原因は、見栄っ張りの性格ではないだろうか。

見栄っ張りである私は、「理解力がある人間」だと思われたい。
人から言われたことをもう一度聞き返すことは、「こいつ理解力がないな」と思われる危険性がある。それはまずい。

だから私は困った時はキラーフレーズを使う。
「なるほどね~」

このフレーズで相手が理解力のある人間だと錯覚させることができる。しかしあくまで錯覚で本当は何もわかってないのである。

大事なことは、「何がわかっていないか」をわかることである。逆に言えば何ならわかっているのかをはっきりさせることである。

わからないと言うことは、知的なことなのである。

2008年9月7日日曜日

本当の悪役はお前だ。

映画『闇の子供たち』を観た。
『闇の子供たち』は、タイの「臓器売買」と「幼児売買春」をテーマにした映画だ。

それを観た女友達は、こう言った。
「男性不信になった。」
「音羽(宮崎あおい)に腹がたった。」

…今まで何の映画観ててん!!

確かに劇中では、子供を買う男の醜態がおもむろに描かれているし、宮崎あおいは、目の前の子供を救うことしか眼中にない偽善者でこれもまた醜い。

ただ男の醜態を描かなければどうなるか。AVの構図と同様に「される側」(子供)が映されることになる。苦痛に顔が歪む子を観て生まれるのは、安易な同情と新しいペドファイルだけだろう。

またこの映画は、幼児売春をする大人と幼児を買う男が必ずしも「悪」として描かれていない。臓器提供を受け入れる親や、幼児を買う男も悩んでいる。幼児売春をする大人も、子供のときは「される側」だったのかもしれない。(劇中でも見張り役の人間がトラウマを思い出して吐いている。)

この仕組みに携わっている誰もが救われていない。大事なのは、この仕組みを白昼のもとに引きずり出し、その仕組みを断ち切ることなのだ。

南部は新聞記者としてその仕組みを見ようと取材を続けるが、音羽(宮崎あおい)は目の前にいる一人の子供を助けようとする。「一人の子供を助けても、また次の子供が連れてこられる」といっても、耳を傾けようとしない。

それでは、自分探しに出て、自分より下等なモノをみて同情して、それらを救出することに自分を見出して、自己満足しているに過ぎない。だから偽善者的で醜いし、腹が立つのだ。

しかし映画館にいる中の誰が宮崎あおいでないと言い切れるのだろうか。土日が暇で、ちょっと社会派の映画を観て安易に同情して、次の日には他の映画で感動するあなたの、誰が宮崎あおいではないのだろうか。

音羽(宮崎あおい)に腹がたったのは、醜い醜態をさらけ出しているおまえ自身の姿だからだ!

2008年9月2日火曜日

ニモメモ

ニモ観た。

海の世界をCGでうまく表現していたし、海流やくらげなど、海ならではの世界観がよかった。

でも何かが足りなかった。

足りなかったことがわかった。

ディズニーに何かを求めていることがわかった。

妊娠小説

斉藤美奈子さんの足払いは見事だ。

一本背負いなんかしなくたっていい。

でも一度でいいから、権力者をキレイにすかしてみたい。

メモ

ペアルックはセックスか。

犬は決して否定をしない。

なおかつ育てなくてもいい。

楽なのだ。

メモ

ペアルックはセックスか。

犬は決して否定をしない。

なおかつ育てなくてもいい。

楽なのだ。

2008年9月1日月曜日

馬上

青春十八切符が残り一日余っていたので、旅に出た。

目的地はない。

しこたま本をリュックにつめこんで、とりあえず北上する。

中国に欧陽脩という人が、考えがよく浮かぶ三つの場所として、馬上、枕上、厠上を上げたが、まさに電車は「馬上」である。

本がスイスイ読める。

本をよく読むために、旅に出ているといっても過言ではなかった。

本と電車とジャワティーでどこまででも行ける。

気がつけば、「いわき」という土地だった。

みんな『訛っている』ような訛り方をしている。

福島県だった。

フラガールの元となったハワイアンセンターがあった。

私は一泊して、何もせずに帰った。

2008年8月28日木曜日

歴史

『橋爪大三郎の政治・経済学講義』の中で、「歴史を取り戻すこと。それは過去についての知識を増やすことではない。過去を、自分自身を形成した出来事として、最発見することだ。」

「自分が何が拘束しているかという、その無意識を調べていくためです。歴史上の大きな出来事は、同世代の人や後世の人に大きな無意識の束縛を及ぼします。ですから、自分も必ず過去のさまざまな出来事に縛られているわけです。それに気がつけば」

まとめ

家父長制が崩壊し、結婚も家同士の儀式ではなく、ただのイベントみたいになってきた。就職も昔は大学や教授のコネで入れたのが、今は誰でも自由に就職できるようになった。

制度やルールや伝統が崩壊し、自由になった。

自由、自由、自由。

しかし人は自由であればあるほど何も出来ない。

例えば大学生活がそうだ。高校とは違い、朝早く起きなくてもよい。授業にでなくてもいい。何をしてもいいのだ。
しかし気がつけば、無目的に四年間が過ぎてしまったのではないだろうか。図書館の前でじっと座ったまま、彼らは動けなくなったのだ。

次に私達がすべきことは、自分の中にルールを構築することだ。しかもそれはひとりよがりのルールではいけない。常に他者と向き合いながらルールを作る。

それを思想と呼ぶ。

2008年8月27日水曜日

ルール DNA

 AERA 2008年9月1日号の『AERA』の現代の肖像は、株式会社サムライ マネージャーの佐藤悦子さんだった。うるおぼえで申し訳ないが、記事にはこう書かれた。「私夫婦は自分の価値観に従って行動する。最近の若い人も自分の価値観を持っている。しかしそれが社会と結びついていない。」

 押井守さんは『凡人として生きるということ』の中で「美学というものは、自分で決める道であるとはいえ、自分勝手なものではいけないということだ。その美学が社会的に認知、公認されるかどうかは、とても重要な要素になる。」

 山田昌弘さんと白川桃子さんの『「婚活」時代』の中で「就職にしろ結婚にしろ、自由化が起これば思いどおりにならなくなる、というパラドクスです。」

 辻井喬さんと上野千鶴子さんの『ポスト消費社会のゆくえ』の中で「「私」より大切なものがある、という公共性の回復への志向ですね。なぜかというと、日本の戦後史といいうのは、見事に公共性を喪ってきた歴史でしたから。」

 『橋爪大三郎の政治・経済学講義』の中で、「知識を駆使して、制度に働きかけることを、思想と考えることができるのではないかと思います。制度、つまり人為的な社会のかたちのあるべき姿を考えるというのが、思想の目的ではないでしょうか。(中略)いったん採用された制度であっても、普段にそれを検討し、よりよいものはないかと考えていく。これが知識の役割ではないでしょうか。」

 押井守さんは『凡人として生きるということ』の中で、「個性を表現する手段として、多くの若者がファッションにお金をかける。自分の個性やセンスを証明する手段として、大量生産品の靴や服を得意げに身にまとっている。だが、本来それは、個性やセンスとはまったく次元の異なるものであり、若者は自分が単なる消費者として堕していることさえ気づいていない。」

 辻井喬さんと上野千鶴子さんの『ポスト消費社会のゆくえ』の中で「消費者は際限のない消費志向にまきこまれ、消費のための消費という嗜好や退廃が始まります。」

押井守さんは『凡人として生きるということ』の中で、「人からの押し付けやデマゴギーではあんく、ちゃんと自分の頭で考え抜いて、自分なりの価値を探すのだ。仕事でも、家族でも、世界平和でも、革命でも、何でもいいが、自分が準じる哲学を自分の手で勝ち取るのだ」

2008年8月20日水曜日

本棚は、「DNA」のようなものだ。

本棚は、「DNA」のようなものだ。

「DNA」は長いひも状の物質である。
ひもの中には、ヌクレオチドが並んでいる。
その順序こそがその人の生命の設計図であり、
誰一人とて同じ「DNA」の配列を持つ人間はいない。
(一卵性双生児を除く)

本棚も同様である。

私は友達の家にお邪魔したときは、まず「本棚」を見る。
本を見れば、どういった志向の人間かわかる。

しかし本だけを見ていても、その人は見えてこない。
もう少し広い視点で、本の順序に着目する。

本と本と連関を見ていく。
開口健の『裸の王様』の隣に斉藤美奈子の『文章読本さん江』があったりして。
そうするとその人の全体像が浮かび上がってくる。

本棚は自分なりの順列を見つけなければならない。
服を脱がされることより、恥ずかしいぞ。

2008年8月4日月曜日

現代の肖像

次第に夜が明けてきた。
青白く淡い光が、彼女の顔を曖昧にしていく。
彼女は、椅子に座りながら、窓の外を眺めていた。

まるで彼女は、終着駅まで一駅一駅ゆっくりと進む、電車の中にいるようだった。

「一生、安定して、静かに暮らして生きたい。」

彼女はそう言った。そしてその言葉が彼女のすべてだった。私は初めて彼女に会ったときの記憶も思い出せない。現在もあまり目立たないでひっそり仕事をしている。

彼女は収入の大半を貯金している。100万円を貯めたら、投資信託につぎ込むらしい。随分リスキーな生き方をするんだねと言ったら、現在は元本保証のものもあるから大丈夫だと返した。彼女はいつも、老後に向けての貯金テクニックという雑誌を読んでいた。

なぜそこまで安定志向なの?私はいぶかしく聞いたら、彼女は親のせいだと答えた。彼女の親は自営業を営んでおり、常に生活が不安定な状況にあったらしい。「反動なの。今後は親を養いたい。」と言った。そのためには今はせっせと貯金しなければならないと言った。

彼女はSEXが好きだ。週3日は彼氏としている。しかし彼氏以外とするつもりはない。どうやら彼女にとってSEXは性欲を満たすものではないらしい。
「独占欲」
彼女はそう言った。彼氏が犬みたいにペニスを挿入しているのを見て喜んでいるらしい。その彼氏は、完全に彼女の奴隷だった。彼氏は彼女に自ら進んで奴隷になっているようだった。

私は破壊的な衝動が起こり、彼氏に他の女を紹介したいと言ったら、彼女は静かに腹を立ち始めた。「それは私に失礼だし、もしあったら殴る。」「もし浮気相手の方にいってしまったら」「彼氏に間違っていることを気づかせる」

「一生、安定して、静かに暮らして生きたい。」

しかし彼女は必死だった。

2008年8月3日日曜日

現代の肖像 

彼女は、朝焼けがよく似合う女性だった。

まるで、終着駅まで各駅停車で向かうように暮らしている女性だった。

生も死もない。

2008年7月28日月曜日

本棚

本棚は一生完成することのない「絵画」だ。

先週の土日は、ほぼ本棚を作ることに費やしてしまった。無印良品で棚を買い、それを自転車でバランスを取りながら家まで運び、ドライバーを使って組み立てる。

それはあくまでサブで、メインは本をどのように配列するかだ。まず本を売るための書店とは違い、出版社や種類で並べる必要はない。また本を分類するための図書館とは違い、限られたテーマで並べる必要はない。

自分の好きなテーマで並べればいいのだ。

ある一冊の本を主軸に置いて、それに関連する本を置いてみる。例えば「ノルウェイの森」だったら、「グレートギャッツビー」だし、「ライ麦畑」だし、べたに「ラバーソウル」を置いてもいい。

なんとなくでも置いてもいい。例えば開口健の「裸の王様」と斉藤美奈子の「文章読本さん江」はつながる。

そういう連関を見つけて、ひとつの本棚にしていくのはまるで絵画のようだ。どんどん連関を見つけては本を足し、そのたび余計な本は精査されていく。

先週の土日は、ほぼ本棚を作ることに費やしてしまったのだ。

2008年7月24日木曜日

メタツッコミ

彼女はネタではなくメタの部分をつっこんで来る。

ネタツッコミではなく、メタツッコミ。

って彼女に言ったら、「自分うまく言ったつもりやけど全然やで」とメタツッコミされた。

あ~気持ちいい。

風俗よりもキャバクラ

風俗よりキャバクラの方が気持ちいい。

風俗は性欲を満たす。

キャバクラは自尊心を満たす。

結果は歴然としている。

彼氏―友人―他人

もっと人間関係にはグラデーションがある。

なんで型にはめようとするの。

型に無理やり押し込めようとするからくずれる。

石ころ

SEXには価値がない。

だから別にやらなくたっていいし、誰とやったっていい。

沈黙の春

サービスと資本主義

2008年7月13日日曜日

モノサシを捨てる

官尊民卑の心が自分の中にある。

自分の中の官は、「思考力」だ。

「思考力」がある人を崇拝し、

「思考力」がない人間を差別する。

いつのまにかそんなモノサシが、自分に内在化していた。

結局のところ、コンプレックスなのだろう。

自分のモノサシを捨てない限り、他人を観察することはできない。

網膜には映っているけど、像を捉えることはできない。

自尊心⇔

「自尊心」をうまくコントロールしよう。

確かに自分は「自尊心」に縛られて生きている。

しかし「自尊心」を満たすだけの生き方は空虚だ。

自分のエゴイズムを自覚すべきだ。

人から認めてもらわれなくても、やりたいことに意識するべきだ。

自分は?

「自尊心」

仕事が大変なのは、「自尊心」が破壊されることである。

上司が部下を管理するのは、「自尊心」をうまく利用するのがいい。

一度、「自尊心」を破壊して、その後「自尊心」を認める。

周りに聞こえる大きな声でほめる。

部下は、「自尊心」を認められ続けるために行動する。

自分が何のためにそれを行っているのかを忘れて。

目標を達成した後のビールの美味しさを味わうために。

悪趣味としかいいようがない。

2008年7月11日金曜日

ほめるな

「ほめるな!」という新書がBOOKOFFにあり、ペラペラとめくってなんとなく概要をつかめた。

要は「自尊心をむやみやたらに認めるな!」ということである。

だからといってアメリカ軍みたいに、徹底的に自尊心を破壊するのとは違う。

まず前提として自尊心を認める。

だからといって、ほめない。

ほめて伸ばす教育をすると、ほめられるために行動する優等生になってしまう。

心に、親や先生のモノサシが内面化し行動してしまうと、本当に自発的な欲望が抑圧されてしまう。

ワタシは

感謝とか人間性なしに暮らせぬものかと考えた。

敵を作らない方法

仲間を作ることは、同時に仲間はずれを作ることである。

敵を作らないためには、仲間を作らなければいい。

人とむやみやたらと近づいたり、または差別したりせず、適当な距離感で接すればいい。

世界にひとつだけでもない花

脱個性的な人とは、何にでも対応できる人のことをいうのだろう。

自分の主観を排除し、客観的に人を見ることができる人。

自分のモノサシで人を計ると、人を区別し差別してしまう。

しかし人にAもCもない。

ただ「そういう人」なだけなのだ。

善いも悪いもない。

ただ「そういう人」に応じて態度を変えることができるのが、「脱個性的な人」だ。

別にワタシは世界にひとつでないし、ひとつもない。

2008年7月7日月曜日

本はメガネ 1分間スピーチVER

朝っぱらから何なんですが、本日はワタシが夜寝る前にする日課について話したいと思います。

それをしないとうまく寝つけないんですが、それは本を読むことなんですね。

最近つくづく思うんですが、本はメガネに似ているなと思うんですね。

みなさまは、初めてメガネをかけたあの感動を覚えていらっしゃるでしょうか。

今まで当たり前のように過ごした世界なのに、メガネをかけると、パーっと世界がより鮮明に見えてくる。

そのとき初めて「今まで自分はこんなに見えてなかったんだ」と気づくんです。

本も同じようなもので、「当たり前のことが、当たり前じゃなくなる瞬間」があるんです。

もうワタシはそれが気持ちよくて仕方がないんですね。

毎晩しちゃう。

またいいネタがあれば教えてください。

よろしくお願いします。

2008年7月6日日曜日

俗っぽい土日

茜ほたるがパチンコ店の一日店長をやっていた。
TSUTAYAの「茜ほたる」は全部借りられていたろう。

鉄コン筋クリートと安藤忠雄のTシャツ買った。「

はちみつ買った。あしたパンにぬりまくる。

MIONのサンダル買った。3千円。偽もの??

消費で満たす俗っぽい一日。

まわりは別れはじめているけれど、

彼女はツッコミの天才なの

せんびち

自分でどうにかなるもの

自分ではどうにもならないもの

その線引き、びちびちうんこ

万能感に浸ったり、自責の念に追いやられることもない

マクロ

「橋爪大三郎の政治経済学講義」

マクロなのがあり。ガッコではロックとか風俗とかミクロしかやってこなかったから新鮮

大枠掴めたので、網野さんとか多木さんの本読みやすなった。

いいよ

ポスト消費社会のゆくえ

温泉

よろづの湯が閉まっていたから、仕方なしに弁天の湯に。

したら風とロックの写真が。

RIPとくるりと箭内さんの

2008年6月25日水曜日

自尊心を満たそうとしない人

人から好かれようとしない。

どうでもいい。

マイペース

わざわざ元気に振舞わない。

自分が思っているほどお前はおもしろくない

ドヤ顔なっていたとか

認められていい気になっているやつが嫌い

きもいわ

価値の反転

人間性の肯定

おもしろくない。きもい。ださい。

でも気に入られようとしない態度がいい。

2008年6月24日火曜日

アナロジー

アナロジー
『生物と無生物のあいだ』

DNA

本がすべるのは、イメージできないから。

イメージができれば面白い。

抽象的なものを、具体的なもので説明する。

よくわかりづらいものを、一旦抽象化して要素を抽出し、それを身近なもので説明する。

本当の知性。詩的。

師の得意技。

思考力がないやつ。具体例がさらにわかりづらい。
それを感性とかで片付けるなら氏ね。

アナロジーと比較する思考とマトリックス

アナロジー、とにかく人にわかりやすく伝えようとする練習
どうすればわかってもらえるか試行錯誤

アナロジー、専門家ではなく広く浅く社会を知るにんげん

特集「荻窪の古書店」

特集「専門図書館」

2008年6月23日月曜日

女友達が多いワタシ

自尊心の認め方で男女の差

太田光

自由奔放

ダンシのまんま

相方は他人についていくタイプ

自由にやっているのを応援する輩

自分にはできないけど一緒になって楽しんでいる

営業

他人が自分の利益で動く姿はあまり見ていて気持ちいいものではない。

自分の情報に価値はないことを誰かが早く耳打ちしたほうがいい。

他人が幸せになる話をしろ。

キム兄の居酒屋

味濃い。
量少ない。
金高い。

やはりブランド。キム兄が露出している間だけで流行る。

もって2年。

絶対次はいかない。

ワタシより大事なもの

消費バカのワタシ。ミーイズムの反動

右翼的なナショナリズムではなく

モチベーションという麻薬

プロは一定

質の悪いものをあえて造る

半永久⇔コスト

電球、電池
ケータイ、電池、質悪い。機種変更を促す。

佐久島にて

雨は濡れるものと気づけば、あと楽。
雨の日で客足は減る。


雨の日でよかった。

靴に水が入り、サッカー用のパンツが濡れる。

濡れた土の上を歩く。やわらかい。

蟹とか蛙とかカタツムリが、騒ぎ出す。

民宿の気楽さという気遣い

ルールは、柔軟

海にウンコ

めちゃいけ

めちゃいけは、『元気が出るテレビ』と同じ手法

内輪とパロディ

はねとびとは似ていない

すべらない話

ジュニアの逆算法と三段落ち

計算つくされたすべらない話。

小藪の画になるリアルな笑い

竜じいという権力を茶化す危なさ

小藪の勝ち。

2008年6月19日木曜日

友達のつくりかた

友達とは、自尊心を満たしてくれてる他人のことを言う。

似たようなファッション、似たような価値観、似たような笑いのツボなど

つまりは「自分のことをわかってくれている」と思わせた瞬間、

ワタシは他人の友達になる。

2008年6月15日日曜日

現代の通信手段

ケータイが迷子になりまして早一週間。

ひとつ気づいたことがあります。

「ケータイなんか要らない。」

意外にどうってことなく一週間が経ちました。

しかし気になるのは、彼女と連絡が取れなくなったこと。

遠くにいているので会いにいけない。

友達の友達がいないのでアドレスを知ることもできない。

mixiもやってないし。

そこで考えた苦肉の策が、、、


テレパシー。

全神経を頭に集中させて、、、え~いっ!!


無理。



ナンシー関のハンコ展「アイドル」


ナンシー関の「大ハンコ展」に行ってきました。

実際に彫られた消しゴム5000点が、

スポーツ選手や文化人や歌手などにカテゴライズされながら、並んでいました。

そんな中、私が一番注目したのは「アイドルコーナー」。

スポーツ選手や歌手などは似ているのだが、

アイドルだけは似ていない。

似ていないというか、どれも一緒で特徴を見出すのが難しいのだろう。

アイドルは、初期衝動だけで消費されていくAV女優と変わらないと思った。

結局、抜いたら終わりなんです。

2008年6月8日日曜日

『夢をかなえるゾウ』

『夢をかなえるゾウ』は、『原因と結果の法則』を批判している。

確かに前回の課題『原因と結果の法則』と今回の課題『夢をかなえるゾウ』は、成功するための意識の持ち方について書かれている点において一致している。

しかし『原因と結果の法則』と『夢をかなえるゾウ』は、前者が自分の内側(心)に注意が向いているのに対し、後者は環境(他人)に向いている点で異なっている。

具体的に『原因と結果の法則』では、「人々の多くは、環境を改善することには、とても意欲的ですが、自分自身を改善することには、ひどく消極的です。」と「環境は思いから生まれるものである」ことを主張している。

 一方、『夢をかなえるゾウ』では、「本気で変わろ思たら、意識を変えようとしたらあかん。意識やのうて『具体的な何か』を変えなあかん。具体的な、何かをな」と、「人間は意識を変えることはできない」ことを主張している。

 さらに「人の長所を盗む」という項で、『人の欲を満たすこと=自分の欲を満たすこと』であり、自分にベクトルが向きすぎるのはよくないのではないかと主張している。

 『夢をかなえるゾウ』を読むことで、『原因と結果の法則』が客観的に分析することができた。

人材サービスはいい加減

「人材サービスは、人の一生を左右する仕事だから、責任もって取り組まなければならない。」

人事や経営者がよくそういう言葉をいう。

しかし実態は逆なのではないだろうか。

登録者の希望職種なんて、気の持ちようしだいでころころ変わる。

書類選考が通ったのに、一次面接に行かない。

第一志望の企業の内定をいただいたのに、辞退することもある。

責任もってやっていたら、こちらとしてはいたたまれない。

人といういい加減な生き物を扱う仕事だからこそ、好い加減にした方がいい。



って先輩に言ったら、お前が言うなよと言われた。

なので一生懸命頑張る私。

あぁ人間だもの!!!

パスちょうだい!!補足

「みなさんのおかげです。ありがとうございました。」

先日、社内で売り上げNO.1を取った人のコメントだ。

やはりワタシはNO.1になるためには、

人からパスをもらうことが必要だと思った。

上司が仕事を振るわけで、

大型案件が入っていたときに、

誰に振るかで、NO.1が決まると思う。

仕事の振り方は平等じゃない。









2008年6月4日水曜日

もっとパスちょうだい!!

昔、ゼミの先生に「お前はサントスだ」と言われたことがあった。

サントスは、自分でシュートチャンスを作って、自分でシュートするタイプの選手だ。

チャンスは自分で作る。自分の力を信じて頑張れば何とかなる。

そういう神話に捉われていた。

でもゴールを決めているヤツを見てたら、

そんなシュートしたいという強欲が見えない。

それでいてゴールを決める。

それがずっと不思議だった。


だけど最近、気づいた。

シュートチャンスを作ってくれるのは、自分ではなく他者だということに。

わざわざ強引にドリブルで切れ込んで角度がないところでシュートするよりも、

当てるだけでゴールできるようなパスをもらう方が圧倒的にゴールできる確率が高い。

大事なことは、自分の力を過信することではなく、

他者に目を向けて、他者とパスをもらえる関係作りをしておくこと。

そのためにはまずチームのために自分ができることをすればいい。

そうすればふと瞬間にパスがまわってくるのだから。

2008年6月2日月曜日

こんなマクドナルドには行きたくない。


ありがとうって、

言ってもらえた回数を

こっそり数えてる。

ワタシ×M

2008年5月31日土曜日

MY FAMILY


大人の階段のぼる



小学生の高学年になったら、儀式がある。
それは白ブリーフからトランクスへ変わることだ。





でも僕はその儀式を、お母さんに言い出せなかった。「マセガキ」にみられるのが嫌だったから。


そうやって躊躇っているうちに、とうとう中学2年生まできてしまった。
ある日、更衣室で体操着に着替えていたら、
周りの99%がトランクス、1%白ブリーフということに気づいた。


「これはさすがにまずい…」


四面楚歌の状況を打破しようと、
家に帰ってから、すぐにお母さんに切り出した。


「白ブリーフはもう嫌だ。」


お母さんは、「そうか、わかった。」と言って、
次の日に新しいパンツを買ってくれることを約束した。


そして次の日、私は風呂からあがって、
わくわくしながら、下着入れを見た。


するとそこにあったのは、


「カラーブリーフ」だった。

しかもエメラルドグリーン。。。


次の日、更衣室で体操着に着替えていると、
案の定、周りの99%がトランクス、1%カラーブリーフだった。


僕は他の男子とは違って、白ブリーフからトランクスではなく
ワンクッション、カラーブリーフを経てのトランクスデビューになった。





人生、遠回りも悪くない。

2008年5月8日木曜日

比較する思考

「比較」するということは、現代社会の「自明性の檻」の外部に出てみるということです。(見田宗介『社会学入門』)

最近、研修でグループディスカッションをしながら、気づいたことがある。
「思考する」とは、常に物事を比較して、相対的に見ることだと言い切ってもいい。

ゼミでは「思考する」ということを、「逆算法」という言葉で使用していたが、
そのときは無意識のうちに「逆算法」を使っていた。

しかし今回「逆算法」を意識化に持っていくことで、
一気に思考力がついた。
自転車に急に乗れたときみたいに、
本もよく読めるようになった。

やばい!

おばちゃんのバイブ

ファミレスで友達と喋っていた。
すると、どこかでケータイのバイブが鳴った。
「ヴゥーヴゥー、ヴゥーヴゥー」
自分のケータイを見たが、自分ではない。
友達も確認していたが、どうやら友達でもないらしい。

他の客かと思いながら、話を再開していたが、
なかなかケータイのバイブの音が止まらない。

「ヴゥーヴゥー、ヴゥーヴゥー」
「ヴゥーヴゥー、ヴゥーヴゥー」
「ヴゥーヴゥー、ヴゥーヴゥー」

誰やねん!
周囲を確認してみたが、
バイブが鳴っているらしき形跡はない。
おかしいな~と思ってたら、
友達がポンと肩を叩いて
「もしかしたら、あれちゃん」と指をさした。

指が指している方向を見たら、
おばちゃんが、
「うぅんうぅん、うぅんうぅん」
とうなづいていた。

おばちゃんのあいづちやったんかい!!!

本はメガネ

本はメガネ

裸眼のときはぼやけてみえていた世界。

しかし本というメガネをかけることで、
あいまいに霞んでいた世界が、
ハッキリ見えるようになる。

ひとつ理論を知ることで、
鮮やかに現実を切ることができる。

ルール理論

人はルールに縛られて行動している。

ある日、フィリピン人の友人と議論した。
しかしまったく話が理解できない。
私の英語力がないのもひとつの要因だが、それ以上に価値観が違いすぎる。

次の日、その友人と、バスケットをした。
私とその友人は、リングに向かってシュートして、
決めれば、同じように喜んでいた。

当たり前のことだが、すごく違和感を覚えた。
昨日、まったく理解できない二人だったのに、
同じルールの上では、同じ動き方をしている。

人はルールに縛られて行動している。
自由に行動しているようにみえて、ルールに制約されている。
見えないルールに、自覚的になるべきだ。

2008年3月25日火曜日

アクマで脇役

相手にいい心持ちになってもらおうってんだから、第一に勝っちゃダメ。どんなことがあろうとも、勝ちをお客にゆずるのがヨイショゴルフの基本だ。「古今亭志ん駒『ヨイショ志ん駒一代』」

自分がいくら人前に出て陽気になっても、自分はお客さんを笑わせる道化であり、脇役でしかないことを自覚しておかなければならない。

パスだけでシュートしていない。

速水健朗『自分探しが止まらない』は、事例ばかり述べていているだけで「だから何?」の部分が書かれていない。ネタを提示するだけなら、後で賢い奴らに「ごっちゃんゴール」されるぞ。

2008年3月24日月曜日

新書は、その人の思想を表している。

 自分が選ぶ本は、恥ずかしながら偏っている。社会学のジェンダー論とかカルスタばかり読んでいる。(だからダメ人間。)

 それに対して、他人から薦められた本は新鮮だ。違う思考回路で論じているからだ。為になるかならないかは別にして、単純に楽しい。

 矢幡洋の『とにかく目立ちたがる人たち』は、私が関心を持っている「個性」を、心理学的な視点から書いている本だ。目立ちたがり屋を2種類の人間「ヒストリオニクス」と「ナルシスト」に分類し、どちらが需要があるのかを論じている本である。

 まず気になったのは、矢幡洋、通称「ヤハちゃん」は、セオドア・ミロン狂ということだ。はじめにの部分で、セミドア・ミロンを人格障害理論の国際的権威だと紹介している。

 次に「ヤハちゃん」は、演繹法的な思考回路をしている。まず先に理論があって、現実をそれに押しはめていく思考だ。

 「ヒストリオニクス」という理論をまず先に出す。そして「ヒストリオニクス」を外国人を使って説明する。杉村太蔵議員や田中康夫知事を例に出しているが、実際にインタビューしている気配はない。

おそらく「ヤハちゃん」は一歩も家の外には出ずに、この新書を作ったのではないか。学者肌の人は、現実とは違う世界に閉じこもっている引きこもりだ。 

 

私は、個性にこだわるイデオロギーのポジからもネガからも自由でいたい。

モノにこだわることは、必ずしもモノのコレクターであることだけを意味しない。気に入らないモノは、灰皿一つだって自分の部屋に置きたくない、という排除の美学だって、モノへのこだわりの裏返しのあらわれである。シンプルライフというのは、そういう排除のイデオロギーだろう。私は、モノにこだわるイデオロギーのポジからもネガからも自由でいたかった。(上野千鶴子,『増補<私>探しゲーム』ちくま学芸文庫)

私は、個性にこだわるイデオロギーのポジからもネガからも自由でいたい。



矢幡洋さんの『とにかく目立ちたがる人たち』の「はじめに」を読んだ。

 矢幡洋さんは、小学生の時「ひょうきんもののヤハちゃん」として個性的なキャラだった。しかしそういう自分が嫌いだったので、中学生になったら目立たないように努力していたらしい。没個性的になろうと努力していたのだ。

 しかし個性的になろうが没個性的になろうが、個性にこだわっている時点でイデオロギーに縛られている。イデオロギーの鎖を外すためには、その鎖がどういう形をしているのかを引きずり出して見なければならない。

 だから私は、個性的になる方法でも没個性的になる方法でもなく、脱個性的になる方法を模索する。

2008年3月21日金曜日

自己啓発書さん江

タイトルは、斉藤美奈子『文章読本さん江』のパロディである。したがって本文もいわゆる「自己啓発書」ではありません。自己啓発書と呼ばれる一連の書物じたいに光を当ててみよう-それが本文の趣旨であります。

自己啓発(じこけいはつ)とは、自己をより高い段階へ上昇させようとすることである。より高い能力、より大きい成功、より充実した生き方、より高い人格などの獲得を目指す。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)


デール・カーネギー『人を動かす』『道は開ける』
スティーブン・R・コヴィー『7つの習慣 成功には原則があった』
船井幸雄『波動で上手に生きる 世の中のしくみ、人生の知恵』
本田 宗一郎『やりたいことをやれ』
松下幸之助 『道をひらく』(PHP研究所、1968年5月) - 450万部を超える大ベストセラー。

自己啓発書に書かれている内容を抽出してみると、

①やる気至上主義
②努力至上主義
③世の中を変えるのは自分

が挙げられる。

自己啓発書は取りこぼしている視点がある。それは「環境」だ。
3分で読めて、3分だけ元気になる。
自己啓発書は商品である。「自己成長したい」という欲望を利用した商売をしている。

「見つめるナベは煮えない」

努力をすれば、どんなことでも成就するように考えるのは思い上がりである。努力しても、できないことがある。それには、時間をかけるしか手がない。幸運は寝て待つのが懸命である。ときとして、一夜漬けのようにさっと出来上がることもあれば、何十年という沈潜ののちに、はじめて、形をととのえるということもある。(外山滋比古『思考の整理学』ちくま文庫)

「好き嫌いで人を判断しない。問うて相手の立場を知る。」

違う視点でものを見ることに慣れている人は、自分の主張と正反対のことを主張する人がいても、それは視点の違いだと解釈します。その上で、視点がどのように違っているのかを突き止めようとします。そのためには、自分の視点を明らかにしながら、相手に様々な質問をして、相手の視点を知ろうとします。自分の視点と相手の視点が分かれば、議論はそれで終いです。(岩田宗之『議論のルールブック新潮新書』)


職業は、自分の視点を形作る

職業は、自分の視点を形作るのではないだろうか。

この前、違う大学の友達と「マジョリティとマイノリティ」について話しあっていた。

教育学を専攻している友達は、「マジョリティとマイノリティなんかどうだっていい。人は公平に見なければならない。」と言った。

社会学を専攻している私は、「マジョリティとマイノリティは存在する。マイノリティは、マジョリティが取りこぼしている視点を持っているので、無視するべきではない。」と言った。

学問が違うだけで、人が見ている立場はこれほどまで違うんだなと、私は改めて感じた。

「先入観を捨てて、何でも食べてみる。」

多くの学生は、自分の好きなものについてはよく知っているし、こだわりも強い。だが、それ以外の世界のことについてはまったく知らないか、テレビでちょっと見ただけで自分には関係のないことと切り捨てているだけなのだ。どうも自分の世界を必死に守っているように見える。(小川博司,だまされたと思って……)

ものの見方のレパートリーを増やすことすべてが「勉強」

特集勉強法のすすめ
勉強とは何も講義やゼミに限ったものではありません。視野を広げ、ものの見方のレパートリーを増やすことすべてが「勉強」と言えるでしょう。その意味での勉強をちょっとおもしろくするコツのようなものを一つご紹介します。それは、月単位で自分なりの「特集」を組む、という方法です。
 特集のテーマは何でもかまいません。子ども向けのSFマンガを60冊読むとか、70年代のハリウッド映画を30本観るとか、そういう目標を毎月決めます。このとき、テーマはできるだけ絞り込み、かつ、そのテーマに関するものは自分の好き嫌いに関わらずとりあえず体験してみること、そして、数をこなすことが大切です。すると、それらの織りなす「世界」がおぼろげに見えてきます。例えば、古典落語を集中的に50本も聞けば、江戸庶民の世界が知識としてではなく肌で感じられてくることでしょう。新聞の一面だけでも各紙30日間分読み比べていけば、メディアが私たちに伝える世界がメディアごとに違っていることを体で感じることができるでしょう。そのとき、おおげさな言い方をすれば、あなたは一つの新しい「世界観」を身につけているのです。
 別に、お金のかかる特集テーマを組む必要もありません。大学のキャンパスを渡り歩いてマンホールの写真を撮り集めてまわるとか、阪急百貨店と
阪神百貨店に入った人のあとをこっそり尾行して行動パターンがどう違うかを観察する、なんてことでもいいのです。そんなのあほらしい、と思う人もいるでしょうが、実はこういうことを研究する「考現学」という学問もあるくらいなのです(詳しくは今和次郎著『考現学入門』ちくま文庫を読んでみてください)。
 いずれにせよ、この手の「勉強」は時間的・精神的な余裕がないと難しいもので、会社に入って仕事に追われるようになったりするとなかなかできません。その点でも、大学生である今のうちにみなさんにオススメしておきたい勉強方法です。
(辻大介,思考錯誤blog,から抜粋)

なんかヘンだぞ。

権威ある人たちが押し付けてくる論理がなんかおかしい、なんかヘンだと感じたら、たとえ論理的に反論できなくても、とりあえず、なんかヘンだぞ、と態度で示しておくことが大切です。そうした態度すら見せないと、権威はみんんあが納得したものと考えて、ますます増長するのですから。(パオロ・マッツァリーノ『ツッコミ力』ちくま新書)

2008年3月18日火曜日

脱・個性

自分をアピールすることをやめよう。

自分をアピールしているヤツを見ると、だるい気分になる。
たとえば、数学を私に教えてくる友達を例にあげる。

数学を教えてくれるのはありがたいが、教えることでいい気になっている。
『数学を教えてあげている俺すごいやろ』的なオーラを発している。

確かに数学を教え方はうまいかもしれないが、「自分のアピール」はいらない。
せっかくその友達を認めているのに、「自分のアピール」をされることで認めたくなくなる。

落語でも同じようなことがある。

落語の場合、それは「おかしい」場面、つまり聴き手が笑う場面であればあるほど、落語家は真剣に、まじめ顔で演ずるということだ。(本多勝一『日本語の作文技術』)

さらに文章でも同じことが言える。本多勝一は野間宏を引用している。

文章というものは、このように自分の言葉をもって対象にせまり、対象をとらえるのであるが、それが出来上がったときには、むしろ文章の方は消え、対象の方がそこにはっきりと浮かび上がってくるというようにならなければならないのである。(野間宏『文章入門』)

ある事実を表現するとき、自分がその事実をおもしろいと感じたのなら、その事実をありのままに伝えればいい。そこに自分の意見や解釈はいらないのである。

自分を背景の中に押しやり、対象を浮かび上がらせる。それが必要ではあるまいか。

2008年3月17日月曜日

芸人のインテリ化

芸人のインテリ化が始まっている。

品川庄司の品川、伊集院光、アズマックスであれ、やたら知識キャラをつける。

これはずっと前に書いたアイドルが天然ボケをして芸人のポジションを食ったからだろう。

クイズ・ヘキサゴンとキャバレーのアナロジー

クイズ・ヘキサゴンとキャバレーの仕組みは似ている。

キャバレーの仕組みを簡単に説明する。

まずお客さんがTOPのコンパニオンを指名する。

次にTOPのコンパニオンが、仲のいいコンパニオン(HELP)を呼ぶ。

そしてTOPのコンパニオンが中心となり、場を盛り上げていく。

これがヘキサゴンと酷似している。

島田紳介がTOPコンパの役割を果たしている。

紳介が、番組に使えそうなキャラの俳優やアイドルを呼ぶ。

現に番組内でもお前使えるから残れなどと言っている。

そして視聴者を楽しませる。

キャバレーが人間模様がドロドロしているように、

芸能界もすごいのだろうな。

キャラ至上主義

2008年現在の若い世代は、やたらキャラにこだわる。

キャラ立てば、努力もせずやる気もないのに、評価されやりたい放題にできる。

それに対して、キャラがなければ、または変なキャラだったなら、いくら努力をしてみてもどうにもならない。

キャラによる序列(ヒエラルキー)ができている。

最下層は、キャラがない普通の人間である。

だからより上位に行くために、バカなことをして目立とうとする。


ん~土井隆義の『友達地獄』を読んでまた書いてみようか。

マイワールドの作り方

自分一人では、私の空間を作りにくくなっている。

私はマクドナルドでよく本を読む。集中できるからだ。

家のほうが静かだし、飲み物や食べ物もあるが、私は家では読まない。

なぜだろう。

家にはなくてマクドにあるもの、それは他者の視線(まなざし)である。

他者の視線を内在化することで、私の空間を作り出しているのではないだろうか。

余談だが、学習机の売り上げの推移はどうなっているのかな。

塾で勉強することによって、私の空間を作り上げる身体が変わってきたのではないか。

2008年3月14日金曜日

マクラ「緊張」

緊張するってのは、あんまいいもんじゃないですな。

いつもならできることもできなくなる。

この前も入試がありましてね。テストの前ですよ。

ガッチガチに緊張してしまって、エンピツもうまく持てない。

気が気でないのですな。

私は『これはまずい』と思って、トイレに行って顔を洗ってたんです。

そしたら(顔を洗っていたら)、横からジャーっと水が流れる音がする。

あっ誰か用を足したんだなって思ってると、

その人がスーッと隣に来て、手を洗ってるン。

私も顔を上げて、パッとその人を見ると、、、

女性なんですね。

えっ!?っと思って壁を見たら、サーモンピンクなんです。

慌てて外に飛び出しましたよ。

間違えて女子便所入ってたんだから。

2008年3月7日金曜日

目標

「人が取りこぼす視点を拾って、突っ込んでいきたい。」

これが私の目標である。

2008年3月6日木曜日

マクラ「オナラ」

私がオナラをぶぅ~とした。

おばあちゃんが横目でジロ~と睨み返した。

だから私も睨み返して、そして、す~っとおばあちゃんを指差して(おばあちゃんやろ)

そしたらおばあちゃん、笑った(私じゃないわ)

マクラ「落語の聴き方」

「お笑い」というものは、構えられるとやりづらいものです。

特に落語では、伝統芸能だと思って、うっと腕を組んで冷静に分析しようとする。

でも本来、落語なんてのは、いいかげんなこと言って金をもらう賎業であります。

そんな大それたものではない。楽に聞いてくれたらいいんです。

マクラ「クセ」

人間、誰しもクセというものを持っている。ただクセは自分では気づかないものが多い。友達に指摘されて始めて気づく。

この前、私が友達にご指摘を受けたのが、「歯をねぶる」だ。

しこたま話した後、(歯をねぶる)。

出っ歯はすぐ歯が乾くので、無意識でやっているんでしょうな。

それを指摘されて、誠に恥ずかしかったのを覚えています。

マクラ「会話に入る」

4対4の合コンで真ん中の席に私は座った。

合コンが始まると、会話が二分した。

私の右では「好きなタイプ」、私の左では「おっぱぴ~」の話になっていた。

真ん中の私は、どうやらどっちの話にも参加していないようだ。

現実に壁はないが、そういうオーラが出ている。

これはまずい。このままじゃハミる。

私は右の好きなタイプの話をさも聞いているかのように、めっちゃ頷いていた。

そしたら、隣におった男友達が私の行動を客観的に見てて、

「今、自分会話に入ろうとしてなかった?」

と言われた。客観的に指摘されてめっちゃ恥ずかしかった。

マクラ うんちく

うんちくを得意げに語るのはいいが、出典がどこにあるのかを明らかにしなければならない。

彼女とチェーン居酒屋に行った。居酒屋のホールスタッフは、注文を電子機器に打ち込んでいる。

そこで私はある話を思い出して、彼女にうんちくを披露した。

「注文を打ち込む機械があるだろ?実はあの機械ひとつで二、三万もしてかなりコストがかかるんだって。だから今はコストを下げるために、あの機械をDSで代替しようとしてるんだって。」

「学校の勉強でもDS、居酒屋でもDS、もう世の中DS祭りだね。」

とまぁまぁなうんちくを彼女に披露したら、彼女が、

「いやってかそれ私が話した話やん。」

これは全力で恥ずかしい。得意げに語ってしまった自分に後悔した。

マクラ 「親戚」

 どうも波多野です。

 大人になると、親戚と顔を合わせる機会が、年々少なくなってきます。だから端で見かけても、自分の親戚とは気づかないこともあります。

 この前、映画を見に行きました。そこの売店で、ソフトクリームを注文しました。

 しかしその売店の店員が、どうやら新人らしくてどうも動きがぎこちないのです。ソフトクリームを作ろうとするんですが、なかなかうまくいきません。

 やっと持ってきたときには、もう予告編が始まっている位の時間でして、 「なんやねんこいつ、ちょっと文句言うたろう」とパッと名札を見たら、「波多野」って書いてあるのです。

 よく見たら、私のいとこの「波多野ひろくん」なんですね。

 文句言おうと思っていた私も、波多野が波多野を批判したら、自分が怒られているみたいになりますから、そこは「ありがとう。」といったのであります。

 道徳的に言えば、やはり人を見るときは区別や差別などしてはいけないのではあります。しかし人間、「身内には甘い」のですね。そんなことを感じたのであります。
 

2008年2月26日火曜日

「名記者」型の人間

無視されるだけでは、その道に向いていないという事しかわからない。

しかし嫌われるということは、その道に向いていない事だけでなく、別の道に進む方向が提示されている。

要は逆なのである。例えば、字を書く鉛筆に対して逆なのものは、字を消す消しゴムである。

それらは一見するとまったく別のものであるが、しかし文房具という点では共通している。

逆になるためには、ある部分で関係しなければならない。

その別の方向に進むためには、嫌われている相手の価値観を深く観察しなければならない。

師Mは、「名記者」型の人間である。

「名記者」型の人間は、事実至上主義の人間である。

「名記者」型の人間にとって、人を説得するための一番の手段は、具体的な事実を客観的に述べることである。

主観的な事実は入れない。

「名記者」型の人間は、客観的な事実に対して誠実な人間である。

素晴らしい文章能力と取材能力を持っていて、人の話を聞くにあたっての基本的な作法を持ち合わせた人間なのである。

誰に対しても取り入れようとしない、反権力型の人間である。

2008年2月16日土曜日

脱イデオロギー

イデオロギーとは、日々生きている中で、疑おうとしない、問うまでもないと思い込み、意識しようとすらしていない価値観とか思想のことである。

たとえば「ロマンチックラヴ・イデオロギー」が、それである。セックスと恋愛と結婚が三位一体となって結合している価値観のことだ。

イデオロギーから自由になるための手段は、イデオロギーを意識化に持っていくことである。見えなかったものを見えるようにするという試みだ。

自分の行動や言動を、ただ無意識にするのではなく、意識し「わざと」行う。そういう所作が必要ではないだろうか。

2008年2月12日火曜日

カーブするときのコツ

カーブするときのコツは、視線をカーブする方向へ向けることである。

例えば車の運転でカーブが下手な人は、ハンドルで曲がろうとする。

あるいはスケートでカーブが上手な人は、足で曲がろうとする。

バランス感覚

バランスは、重心が上にあればあるほど、安定しやすい。

だから、バランスは、首から上で行うものである。

バランス感覚を鍛える練習法として、頭に何かを乗せて行動することである。

2008年2月6日水曜日

クタバレ!すぐメールで会いたいという人

すぐメールで会いたいという人がいる。

相手に何か用事があったとしても、「会いたい」といってくる。

用事をずらして会いに行くと、別に何もしない。

そういう人は、ただ孤独を紛らわしたいだけである。

孤独を紛らわしたいだけの人は、相手を拘束したがる。

その割りに、他に孤独を紛らわす人ができたら、そっちに乗り移る。

で結局繰り返し、同じことをする。

結論からいうと、自分のために人を利用とする人間は、どこまでいっても孤独である。

たとえSEXしていたとしても、相手との距離の遠さに虚無を感じるだけである。

クタバレ!私のこと好き?と聞いてくる人

常に「私のこと好き?」と聞く人がいる。

私が「普通」と答えると怒る。

私はこの人が異常だと思う。

確かに恋愛しているのだから、その相手のことを好きでいることは間違いない。

だからといって、人間だから、常に好きな状態でいるわけではない。

泣いたり笑ったりするように、人に対する感情も変化する。

例えば、常に笑っている人を見たら、なんか怪しいと思わないか。

感情をひとつに拘束するというのは、これは脅迫ではないだろうか。

クタバレ!指輪をつけたがる人

やたら指輪をつけたがる人がいる。

指輪をつけることで、別に彼氏・彼女といつも繋がっていると感じ、他人に彼氏・彼女がいることを認めさせ寂しい人じゃないということを主張している。

しかしロマンチック・ラヴ的指輪は、「女性の性を男が所有する」という約束手形みたいな要素もある。

だから高らかに指輪を見せびらかす人は、大声で「この人しかSEXしませんよ」とマニュフェストを公言しているのと一緒である。

くたばれ!ロマンチック・ラヴ!

ロマンチック・ラヴは、くたばってしまえばいい。

ロマンチック・ラヴ・イデオロギーとは、「SEX-恋愛-結婚」が三位一体となっている考え方だ。

この考え方は、婚外子を認めない日本の法律(SEX-結婚)や、恋愛のゴールは結婚というドラマ(恋愛-結婚)によって、支えられている。

ロマンチック・ラヴが当たり前だと思っている女は、「結婚するまでSEXしない」という貞操観念に捉われているし、結婚している状態で他の女性とSEXすることを「浮気」として罪になる。(SEX-恋愛)

確かにロマンチック・ラヴは、ひとつの恋愛のあり方あるのは認める。しかしながら、恋愛はロマンチック・ラヴしかないという風潮は危惧するべきはないだろうか。

チップのGIVE&TAKE

チップをもらうことも、「サービス以上のサービス」の中のひとつである。

確かにチップは、サービス以上のサービスをしたときに、もらえるのだから対価のように見える。

なぜならチップはもらう人よりも、あげる人の方が嬉しいからだ。
チップをあげることは、自分で自分の力を感じることができるからだ。『私はチップをあげて人を喜ばせている』と感じることで、生き生きとする。アナロジーとしては、料理は食べる側より作る側の方が楽しいことがあげられる。

だからチップは、好きなだけもらえばよい。そして思いっきり喜べばよい。思いっきり喜べば喜ぶほど、客は喜ぶのだからだ。チップをもらうことは何もずるい行為ではないのだ。

チップのもらい方の違いでわかること

チップのもらい方で、人の動き方がわかる

だからといって、どういうチップのもらい方が正しいとか、チップをもらってない人は動いてないというつもりではない。

最近発見したのだが、私と先輩ではチップのもらい方が違うのだ。

私は、主に客側からもらう。
先輩は、主にホステス側からもらう。

「サービス以上のサービス」の仕方にどのような違いがあるのだろうか。

私の「サービス以上のサービス」は、お客様に愛想を振りまくことだ。

ただ注文された料理を持っていくだけでなく、笑顔で元気よく料理を持っていく。さらに料理の説明を加えたりしながら、お客様と談笑する。

気に入ったお客様は、「いい兄ちゃんだね、好きだよ」という風になって、財布の中から千円が出てくる。

それに対して、先輩の「サービス以上のサービス」は、ホステスさんに愛想を振りまくことだ。

例えば、先輩は、ホステスさんが新しいヘアスタイルに変わったとき、すぐ気づいて褒める。新しいドレス、メイクについても同様だ。チップをもらっても、お返しにその金でバッグをプレゼントしたりする。

先輩は言う。「さりげない一言で、一日ホステスさんが気分よく仕事できるやんか」と。

なるほどなと私は思いました。




チップの意味

チップは、別に一万円でも、飴玉ひとつでも、意味は変わらない。

前章で、チップは「金と対価のサービス以上のサービス」をした時に出ると言った。

だからといってチップは、「サービス以上のサービス」に対して、客が支払う金ではない。

客は、「サービス以上のサービス」をしてくれて「ありがとう」という意をこめて渡すのだ。

だからもらうものは、何でも構わない。

もらったチップの内容が重要ではなく、チップをもらうという形式自体が重要なのだから。

とはいえ、チップの内容も気になるのが人間の性というものか。

私がもらって嬉しかったのは、電話番号かな(笑)


チップのもらい方

チップは、「金と対価のサービス以上のサービス」をしたときに、出るものだ。

例えば、客が焼酎を頼んで、ウェイターが焼酎を持ってくるとする。これは金の対価のサービスである。

しかしウェイターが注文の際に、そのお客さんがかなり酔っていることを察して、焼酎とともにお冷を置いておく。これが「金と対価のサービス以上のサービス」である。

そのように、言われたことをやるのではなく、言われる前にやることが大事なのである。

「まかない・寮つき」のバイトへは行くな!

「まかない・寮つき」のバイトへは行くな。

確かに一見すると、魅力的な条件に見えるかもしれない。バイト代は、食費や家賃などの生活費を節約できるから、自分の小遣いに使える。

しかし私は警告する。「まかない・寮つき」のバイトへは行くな。
なぜならバイト君は、「会社に飼われている動物」と化するからだ。

私が働いたある飲食業のバイトでの話だ。

 まず「まかない」から。「まかない」には、週2回程度、炒め物が出てくる。それをバイト君たちは、「チャンプルー」と呼んでいる。「チャンプルー」とは、沖縄の料理で「ごっちゃまぜ」という意味だが、その炒め物はまさにそれである。味付けは辛くしてあるので一緒なのだが、中身はいつも違う。この前食べたときは、きゅうりの漬物が入っていた。要は「チャンプルー」とは、そのとき余った食材を炒めた料理なのだ。確かに本来「まかない」とはシェフが余った食材を駆使して作るもののである。しかし辛い味付けでただ炒めるだけの料理はそんないいもののではない。

 これは何を意味するかというと、バイト君は、ただの残飯処理係なのだ。ゴミを漁るネズミのことは笑えない。バイト君は、だいたいそのエサを5~10分程度で食べる。味わっている暇はない、ただ胃袋の中に栄養を入れているだけだ。

 次に寮だ。これに関しては「寮」と呼んでいいのかすら疑問である。まず4.5畳くらいの畳張りの部屋で、畳は老朽化し、湿って腐りかけている。もちろんコンロ・トイレ・風呂はない。究極なのは、鍵が南京錠で、外側からしか鍵がかけられないようになっているのだ。

 「外側からしか鍵の開け閉めができず、中はただのスペース。」
このことが何を意味しているのかというと、その寮は寮ではなくただの「オリ」なのだ。バイト君は、すすんでオリの中に入る、いい動物なのだ。

 以上のことから、「まかない・寮つき」のバイト君は、オリに入れられて、最低限のエサを与えられている人間なのだ。その生活に甘んじてしまったら最後、バイト君はもはや自力で抜け出すことはできない。
生きるために働くのではなく、働くために生きる状態だ。企業が家族的で保障されていたら問題はないが、国民年金や医療保険など払ってくれているはずがない。

2008年2月5日火曜日

男の心を動かす仕事、ホステス

人の心を動かす快感を、少なからず感じたことがあるだろう。

たとえばやる気のない部下をやる気にさせたり、

悩んでいる友人を励ましたり、

あるいはマスコミ、芸人、宗教家、心理カウンセラーなど、

快感を感じたことがあるだろう。

そういう「人の心を動かす」仕事のひとつに、水商売がある。

ただこの場合、ターゲットは中年男性に範囲が絞られる。

ホステスは、中年男性の心を、いろんな手段を使って支配し、金を搾取する。

店のNO.1に輝く指名は、したがって目の色が違う。

男の目の奥にまで入り込むような目をしている。

主導権

キャバレーでは、ホステスが主導権を握っている。

 確かに一見すると、客である男の方が主導権を握っているように見える。男がホステスを選択できるし、合わなかったら別のホステスを呼べる。

しかし私は、ホステスさんの方が主導権を握っているように見える。

なぜならば、ホステスに落ちた男は、簡単に心を支配され、利用されるからだ。

 ホステスは、客をいろんな手段でもてなし、その気にさせる。手段はいろいろある、まずはカオやムネなどの容姿から始まり、それを活かしたボディータッチや視線、無いものは方言、トーク、料理、メールでじらすなどだ。

 落ちたら後は簡単、ホステスは、男に金を貢がせる。男は同伴やアフターを楽しみたいために、女を指名し続ける。誘っても、遠まわしの返事でごまかしていく。すると男は「後もうちょっと!」という気分になり、さらに指名しつづける。

 男というものは、ある目標のために一点集中する生き物だ。これだと決めたら、何が何でも手に入れるということを、男の美学として叩き込まされている。

 その特性を利用し、女は自分の思い通りの方向へ男を誘導する。だからキャバレーではホステスの方が主導権を握っている。

家父長制ごっこ

キャバレーは、一言でいうと「家父長制ごっこ」である。

「家父長制ごっこ」とは、小倉千加子の言葉を借りるならば、「カネとカオの交換する儀式」である。

カネを払う男と、カオで接待する女。

男は、経済力のある男を演じ、お気に入りの女を指名する。

女は、性的魅力のある女を演じ、男をその気にさせる。

しかし実際、ほとんどの客は、「男らしい男」ではない。

一歩キャバレーの外を出てみると、さえないサラリーマンだろう。

当たり前の話、「男らしい男」だったら、ごっこなどせず、現実に養っているだろう。

「男らしくない男」が、「男らしい男」を演じることで、自分を慰めているのだ。

女性の場合も、一歩外に出てみれば女扱いされないような女性がうようよ蠢いている。

性的対象に見られる快感というものがあるのだろうか。