2008年3月21日金曜日

自己啓発書さん江

タイトルは、斉藤美奈子『文章読本さん江』のパロディである。したがって本文もいわゆる「自己啓発書」ではありません。自己啓発書と呼ばれる一連の書物じたいに光を当ててみよう-それが本文の趣旨であります。

自己啓発(じこけいはつ)とは、自己をより高い段階へ上昇させようとすることである。より高い能力、より大きい成功、より充実した生き方、より高い人格などの獲得を目指す。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)


デール・カーネギー『人を動かす』『道は開ける』
スティーブン・R・コヴィー『7つの習慣 成功には原則があった』
船井幸雄『波動で上手に生きる 世の中のしくみ、人生の知恵』
本田 宗一郎『やりたいことをやれ』
松下幸之助 『道をひらく』(PHP研究所、1968年5月) - 450万部を超える大ベストセラー。

自己啓発書に書かれている内容を抽出してみると、

①やる気至上主義
②努力至上主義
③世の中を変えるのは自分

が挙げられる。

自己啓発書は取りこぼしている視点がある。それは「環境」だ。
3分で読めて、3分だけ元気になる。
自己啓発書は商品である。「自己成長したい」という欲望を利用した商売をしている。

「見つめるナベは煮えない」

努力をすれば、どんなことでも成就するように考えるのは思い上がりである。努力しても、できないことがある。それには、時間をかけるしか手がない。幸運は寝て待つのが懸命である。ときとして、一夜漬けのようにさっと出来上がることもあれば、何十年という沈潜ののちに、はじめて、形をととのえるということもある。(外山滋比古『思考の整理学』ちくま文庫)

「好き嫌いで人を判断しない。問うて相手の立場を知る。」

違う視点でものを見ることに慣れている人は、自分の主張と正反対のことを主張する人がいても、それは視点の違いだと解釈します。その上で、視点がどのように違っているのかを突き止めようとします。そのためには、自分の視点を明らかにしながら、相手に様々な質問をして、相手の視点を知ろうとします。自分の視点と相手の視点が分かれば、議論はそれで終いです。(岩田宗之『議論のルールブック新潮新書』)


職業は、自分の視点を形作る

職業は、自分の視点を形作るのではないだろうか。

この前、違う大学の友達と「マジョリティとマイノリティ」について話しあっていた。

教育学を専攻している友達は、「マジョリティとマイノリティなんかどうだっていい。人は公平に見なければならない。」と言った。

社会学を専攻している私は、「マジョリティとマイノリティは存在する。マイノリティは、マジョリティが取りこぼしている視点を持っているので、無視するべきではない。」と言った。

学問が違うだけで、人が見ている立場はこれほどまで違うんだなと、私は改めて感じた。

「先入観を捨てて、何でも食べてみる。」

多くの学生は、自分の好きなものについてはよく知っているし、こだわりも強い。だが、それ以外の世界のことについてはまったく知らないか、テレビでちょっと見ただけで自分には関係のないことと切り捨てているだけなのだ。どうも自分の世界を必死に守っているように見える。(小川博司,だまされたと思って……)

ものの見方のレパートリーを増やすことすべてが「勉強」

特集勉強法のすすめ
勉強とは何も講義やゼミに限ったものではありません。視野を広げ、ものの見方のレパートリーを増やすことすべてが「勉強」と言えるでしょう。その意味での勉強をちょっとおもしろくするコツのようなものを一つご紹介します。それは、月単位で自分なりの「特集」を組む、という方法です。
 特集のテーマは何でもかまいません。子ども向けのSFマンガを60冊読むとか、70年代のハリウッド映画を30本観るとか、そういう目標を毎月決めます。このとき、テーマはできるだけ絞り込み、かつ、そのテーマに関するものは自分の好き嫌いに関わらずとりあえず体験してみること、そして、数をこなすことが大切です。すると、それらの織りなす「世界」がおぼろげに見えてきます。例えば、古典落語を集中的に50本も聞けば、江戸庶民の世界が知識としてではなく肌で感じられてくることでしょう。新聞の一面だけでも各紙30日間分読み比べていけば、メディアが私たちに伝える世界がメディアごとに違っていることを体で感じることができるでしょう。そのとき、おおげさな言い方をすれば、あなたは一つの新しい「世界観」を身につけているのです。
 別に、お金のかかる特集テーマを組む必要もありません。大学のキャンパスを渡り歩いてマンホールの写真を撮り集めてまわるとか、阪急百貨店と
阪神百貨店に入った人のあとをこっそり尾行して行動パターンがどう違うかを観察する、なんてことでもいいのです。そんなのあほらしい、と思う人もいるでしょうが、実はこういうことを研究する「考現学」という学問もあるくらいなのです(詳しくは今和次郎著『考現学入門』ちくま文庫を読んでみてください)。
 いずれにせよ、この手の「勉強」は時間的・精神的な余裕がないと難しいもので、会社に入って仕事に追われるようになったりするとなかなかできません。その点でも、大学生である今のうちにみなさんにオススメしておきたい勉強方法です。
(辻大介,思考錯誤blog,から抜粋)

なんかヘンだぞ。

権威ある人たちが押し付けてくる論理がなんかおかしい、なんかヘンだと感じたら、たとえ論理的に反論できなくても、とりあえず、なんかヘンだぞ、と態度で示しておくことが大切です。そうした態度すら見せないと、権威はみんんあが納得したものと考えて、ますます増長するのですから。(パオロ・マッツァリーノ『ツッコミ力』ちくま新書)

2008年3月18日火曜日

脱・個性

自分をアピールすることをやめよう。

自分をアピールしているヤツを見ると、だるい気分になる。
たとえば、数学を私に教えてくる友達を例にあげる。

数学を教えてくれるのはありがたいが、教えることでいい気になっている。
『数学を教えてあげている俺すごいやろ』的なオーラを発している。

確かに数学を教え方はうまいかもしれないが、「自分のアピール」はいらない。
せっかくその友達を認めているのに、「自分のアピール」をされることで認めたくなくなる。

落語でも同じようなことがある。

落語の場合、それは「おかしい」場面、つまり聴き手が笑う場面であればあるほど、落語家は真剣に、まじめ顔で演ずるということだ。(本多勝一『日本語の作文技術』)

さらに文章でも同じことが言える。本多勝一は野間宏を引用している。

文章というものは、このように自分の言葉をもって対象にせまり、対象をとらえるのであるが、それが出来上がったときには、むしろ文章の方は消え、対象の方がそこにはっきりと浮かび上がってくるというようにならなければならないのである。(野間宏『文章入門』)

ある事実を表現するとき、自分がその事実をおもしろいと感じたのなら、その事実をありのままに伝えればいい。そこに自分の意見や解釈はいらないのである。

自分を背景の中に押しやり、対象を浮かび上がらせる。それが必要ではあるまいか。

2008年3月17日月曜日

芸人のインテリ化

芸人のインテリ化が始まっている。

品川庄司の品川、伊集院光、アズマックスであれ、やたら知識キャラをつける。

これはずっと前に書いたアイドルが天然ボケをして芸人のポジションを食ったからだろう。

クイズ・ヘキサゴンとキャバレーのアナロジー

クイズ・ヘキサゴンとキャバレーの仕組みは似ている。

キャバレーの仕組みを簡単に説明する。

まずお客さんがTOPのコンパニオンを指名する。

次にTOPのコンパニオンが、仲のいいコンパニオン(HELP)を呼ぶ。

そしてTOPのコンパニオンが中心となり、場を盛り上げていく。

これがヘキサゴンと酷似している。

島田紳介がTOPコンパの役割を果たしている。

紳介が、番組に使えそうなキャラの俳優やアイドルを呼ぶ。

現に番組内でもお前使えるから残れなどと言っている。

そして視聴者を楽しませる。

キャバレーが人間模様がドロドロしているように、

芸能界もすごいのだろうな。

キャラ至上主義

2008年現在の若い世代は、やたらキャラにこだわる。

キャラ立てば、努力もせずやる気もないのに、評価されやりたい放題にできる。

それに対して、キャラがなければ、または変なキャラだったなら、いくら努力をしてみてもどうにもならない。

キャラによる序列(ヒエラルキー)ができている。

最下層は、キャラがない普通の人間である。

だからより上位に行くために、バカなことをして目立とうとする。


ん~土井隆義の『友達地獄』を読んでまた書いてみようか。

マイワールドの作り方

自分一人では、私の空間を作りにくくなっている。

私はマクドナルドでよく本を読む。集中できるからだ。

家のほうが静かだし、飲み物や食べ物もあるが、私は家では読まない。

なぜだろう。

家にはなくてマクドにあるもの、それは他者の視線(まなざし)である。

他者の視線を内在化することで、私の空間を作り出しているのではないだろうか。

余談だが、学習机の売り上げの推移はどうなっているのかな。

塾で勉強することによって、私の空間を作り上げる身体が変わってきたのではないか。