2008年11月6日木曜日

吉野弘 祝婚歌

ふたりが睦まじくいるためには愚かでいるほうがいい
立派すぎないほうがいい
立派すぎることは長持ちしないことだと気づいてるほうがいい
完璧をめざさないほうがいい
完璧なんて不自然なことだとうそぶいているほうがいい
ふたりのうちどちらかがふざけているほうがいいずっこけているほうがいい
互いに非難することがあっても非難できる資格が自分にあったかどうかあとで疑わしくなるほうがいい
正しいことを言うときは少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは相手を傷つけやすいものだと気づいているほうがいい
立派でありたいとか正しくありたいとかいう無理な緊張には色目を使わず
ゆったりゆたかに光を浴びているほうがいい
健康で風に吹かれながら生きていることのなつかしさに
ふと胸が熱くなるそんな日があってもいい
そしてなぜ胸が熱くなるのか黙っていても
ふたりにはわかるものであってほしい

2008年11月3日月曜日

自分は間違っていました。

自分は、自尊心の奴隷だ。

確かに自尊心は大事だ。

おじいちゃんやおばあちゃが無償の愛をくれたり、
彼女が悩みを受け止めてくれたり、
友達が応援してくれるだけで、
水を得た魚のように自信満々に振舞うことができる。
どんな批判も跳ね返すことができる。

自尊心が満たされなければみじめで卑屈になる。

彼女があまり可愛くないから、人に見られるのは嫌だったりした。
就職活動うまく行かなかったから、アルゼンチンに逃亡しかけた。
私は姿をくらましたり、ごまかそうとする。

自尊心は大事だが、行き過ぎると自己欺瞞や他人の否定につながる。

例えば私は未だに高校の後夜祭で全校生徒の前で司会したことを誇りに思っている。
でも客観的にみれば、ただ場つなぎをしていただけで誰も覚えていないだろう。

自分の都合の良い記憶だけを集めてそれを反復して思い出すことで美化していく。
「記憶の修正」だ。

また友達から「お前は人をランク付けする」と言われたことがある。
たとえば私は以前に所属していたサークルにいた人間を差別していた。
逆にゼミの先生を崇拝し、推薦された本はその日に借りていた。

その自尊心という弱さや脆さや美しさは、みんな持っている。
しかし私は自分の自尊心を満たすために、視野狭窄に陥り、
自分とは違うものを排除し、人の自尊心を傷つけていた。

ゼミの先生がよく言ってた。
「自分が正しいと思っていることが痛い」
「個性という名のオリにとらえられている」

「知的であることの最低条件は、自己懐疑ができるかどうかということになる。」(『生物と無生物のあいだ』,福岡伸一,p.67)


自尊心を満たすために、私はずいぶん多くのものを失ったろう。

今私にすべきことは、人の自尊心を知って、それを尊重することだ。

友達が芸能人であるという栄光浴も、
ブランドを消費する人も、それを受け入れる。

それを馬鹿にしてはいけない。
笑うときは慎重にしなければならない。

人の自尊心を尊重することで、自分の自尊心がどういうものか骨格が見えてくる。
人の自尊心を尊重することで、自分の自尊心が破壊され、拡がっていく。

僕が尊敬する友達は、みんな柔軟性があった。
昔はなんて適当なやつだと思っていたが、
正直あこがれていた。

そういう奴は、他人の自尊心を尊重できる人間だった。

第二の人生のスタートが始まる。

彼女のプレゼント

彼女の誕生日プレゼントに、私はCOACHのバッグを買いました。

私にとってそれを贈るのは抵抗がありました。

なぜなら私は、「ブランド」を価値のないものをイメージで価値付けして消費する物質主義の最たるものと認識していたからです。

しかも彼女が欲しい理由が、「COACHが(ブランドとしての価値が)安いと知りながら、でもみんな持っているから欲しい」です。

抵抗感がさらに増しました。

でも私がそれを贈ったのは、「他人の自尊心を尊重する気持ち」が大事だと思ったからです。

ブランドは、気軽に自尊心を満たせる一種の道具です。ブランドものを持てば、自信満々に歩ける。ブランドものを自分の心の支えとして生きる人もいる。

それは決して否定してはいけないと思います。
人は自分を正当化しなければ生きてはいけないのだから。

こうして私が彼女のプレゼントについて書いていることも、
実は思想的には異なる行為に対して、
「他人の自尊心を尊重する気持ち」が大事という都合のいい解釈をして、
自分のした行為を正当化しているにちがいない。

そんな人間の弱さは大事にしたいんです。